【一般常識クイズ】受験生なら余裕?世界史B(WWⅠとその後)

 

Q-1
第一次世界大戦のきっかけとなった『サラエボ事件』の概要は?
答え
ボスニアの州都サラエボでセルビアの民族主義者が、訪問中のオーストリア皇太子夫妻を暗殺した。
Q-2
以下の国から、第一次世界大戦開始時の同盟国連合国にそれぞれ分類してください。

・イギリス
・フランス
・ドイツ
・ロシア
・オーストリア

答え
同盟国:ドイツ、オーストリア
連合国:イギリス、フランス、ロシア
Q-3
アメリカは大戦に関し当初中立を守っていましたが、ドイツのある作戦を理由に、対戦後期に参戦することになりました。そのドイツの作戦とは?
答え
無制限潜水艦作戦
戦争状態において、潜水艦が敵国に関係すると思われる艦艇・船舶に対して目標を限定せず、無警告で攻撃する作戦のこと。
Q-4
第一次世界大戦、イギリスの三枚舌外交と言われる3つの協定の名は?
答え
①フサイン=マクマホン協定⇒中東のアラブ独立・公開
②サイクス・ピコ協定⇒英仏露による中東分割・秘密協定
③バルフォア宣言⇒パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設・公開
※サイクス・ピコ協定を加えず二枚舌外交と呼ばれることもあります。
Q-5
大戦後期、ロシアではロシア革命が起きソビエト政権を樹立、ドイツと講和する方針に転換し、翌年の1918年3月にドイツと単独講和をしましたが、その条約の名は?
答え
ブレスト=リトフスク条約
Q-6
ロシア革命後、ドイツでもドイツ革命が起き王政が終わりドイツは共和国となりました。この1919年から1933年までの共和国時代のドイツのことを何と呼ぶでしょうか?
答え
ワイマール共和政またはワイマール共和国
Q-7
第一次世界大戦における連合国ドイツ国の間で締結された講和条約の名は?
答え
ヴェルサイユ条約
Q-8
パリ講和会議およびヴェルサイユ条約で、国際連盟の設立が決定されたが、連盟当初の常任理事国とは?
答え
イギリス・フランス・イタリア・日本
現在の国際連合の常任理事国とは違い最高機関ではなかった。
Q-9
アメリカは、国際連盟がある理念を盛り込んだ事を理由に国際連盟に加入しなかったが、その理念とは?
答え
集団安全保障
アメリカでは、この集団安全保障の原則が国家の開戦権を侵害するものだと考え、アメリカ議会上院がヴェルサイユ条約の調印に反対。アメリカはヴェルサイユ条約も批准しなかった。
Q-10
1928年には、侵略目的の戦争を違法化する条約が列強各国に批准されたが、その条約の名は?
答え
ケロッグ・ブリアン条約(不戦条約とも)
日本もケロッグ・ブリアン条約に調印した。
Q-11
1930年、米英日が10:10:7の比率までしか補助艦を保有できないことが定められた会議の名は?
答え
ロンドン会議
Q-12
1919年、孫文を中心とする中国国民党ができ、1921年には共産党が出来た。では、共産党は誰の呼びかけで作られたでしょうか?
答え
陳独秀(ちんどくしゅう)
初代総書記に選出された。
Q-13
1927年に国民革命軍が南京・上海を占領すると、蒋介石はクーデタを起こして共産党を排除し、南京に国民政府を建てました。では、排除された毛沢東率いる共産党が、1931年に江西省瑞金に樹立した政府の名前は?
答え
中華ソヴィエト共和国臨時政府
Q-14
インドの民族運動の指導者ガンディーはインド国民会議に加わり、暴力を用いないで独立運動すべしという主張を国民会議でして、非暴力・不服従というスローガンの運動になりましたが、実際には暴力事件が多発してしまい、結局、ガンディーは運動の中止を主張しました。しかし、独立運動の意志は収まらず、インド国民会議は急進派の指導者に変え独立運動を続けました。では、その急進派の指導者とは?
答え
ジャワハルラール・ネルー
Q-15
第一次大戦後、敗戦国であるオスマン帝国に代わるトルコ共和国の建国を宣言し、脱イスラム化の政策を行い、アラビア文字からラテン文字への移行、女性参政権、政教分離などの改革、いわゆるトルコ革命を指導した人物は?
答え
ムスタファ=ケマル
トルコ共和国の元帥、トルコの初代大統領
Q-16
1923年、トルコ新政権が列強と、新国境の決定、治外法権の廃止、関税自主権の回復などを定めた条約を締結したが、その条約の名は?
答え
ローザンヌ条約
Q-17
第一次大戦後、立憲君主制として、トルコにならった改革を行った国は?
答え
イラン
Q-18
アラビア半島では、イブン=サウードがイギリスの支援を受け、アラビア半島の大部分の領域を統一しサウジアラビア王国を建国したが、建国した年は次のうちどれ?

①1930年
②1931年
③1932年
④1933年

答え
③1932年
Q-19
1933年にオランダの弾圧により流刑にされたが、1942年の日本の軍政により復帰し、後に日本軍と協力してオランダからの独立運動を続けた指導者の名は?
答え
スカルノ
Q-20
1930年、ビルマ(現ミャンマー)で結成され、その後、反英独立運動の母体となった党の名は?
答え
タキン党
アウンサンスーチーの父アウンサンが中心となって指導していた。

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